南通竿燈会

南通竿燈会について

南通竿燈会の発足

竿燈イメージ

南通り連合青年会の活動は、連合売出しから、教養講座の開講、運動会、野球大会の計画と開催、自警団活動等で多彩なものでしたが、昭和46年会員の熱意でついに南通竿燈会をつくりました。

竿燈会会長の平野弘氏を中心に進藤繁氏、加賀谷三雄氏、石井鶴美氏、碇谷勝男氏の前青年会長をはじめ青年会員多数参加して、初めての竿燈にチャレンジしたものでした。

発足当時は竿燈演技の腕前は残念ながら自慢出来るものではありませんでしたが、今年で40周年!伝統ある外町の町内に引けを取らない竿燈会に成長し、南通り商店街の宣伝に大きく貢献しております。

竿燈の起源

竿燈の起源イメージ1

昔お盆になると、門前に12メートルくらいの杉の長木に横木をつなげて、灯籠をつけ夜になると灯りをつけ、新仏が自分の家に帰る道を間違わないようにする道しるべでした。
この高灯籠を持ち歩くようにしたのが竿燈のはじまりでした。
提灯がぶらぶらしないように、固定するようになり、最初は2個の提灯でしたが、だんだん40個50個とつけるようになって今の形になったといわれています。竿燈の起源は江戸時代1700年代中頃からといわれている。

  • ねぶりながし

    夏になると労働意欲も睡魔から半減するようになり、睡魔を退治するために眠り流し(ねぶりながし)、つまり竿燈をやったといわれていいます。 また、目的はあくまでも庶民の願望から生まれたもので、提灯を米俵にたとえ、豊作祈願でおこなわれました。竿燈は職人・商人の町である久保田の城下町にうまれ、本来であれば五穀豊穣、豊作祈願は農民からの大きな願いであるかのようですが、当時は農民でも商人でもまた武士でも稲作とは密接な関係を持っていたことは確かです。

  • 竿燈会場の変還

    昔は久保田下町の行事として旭川の外側つまり大町、茶町通りで行われていた。しかし、明治時代後期は、楢山グラウンド、千秋公園に会場を移し、また昭和初期には新国道、戦後には千秋公園二の丸、公園入り口中土橋などで行われていた。 また、広小路会場から、現在は山王大通り、通称竿燈通りで行われている。

竿燈の起源イメージ2

竿燈技の解説

竿燈は夜の行事であり、竿燈の美しさは提灯に灯る蝋燭の明かりにある。
夏の夜空をいろどり、優雅にして華麗な灯火の美を夜空に描いてくれる。
竿燈の技も第一に求められるのは、この美しい竿燈の明かりを消さないことである。
昭和6年(1931)、竿燈会が発足すると、これを機会に日ごろ各人が習得した技を公開してその技術を研究しあい、会員全体の技術向上に役立てるということで町内対抗の妙技会(競技会)が始められた。妙技会の方法は各町内から5人ずつ選手を出して、流し・平掌・額・肩・腰の五種目を競い、その総合得点で順位を決めた。

竿燈技の解説イメージ
流し(ながし)
平掌・額・肩・腰などの演技は普通継ぎ竹2本以上を継いで行うが、この技は次の差し手が継ぎ竹を継ぐまで持ちこたえるもの、安定さが要求される技。
平掌(てのひら)
高々とかざし、力強く豪快な技。
額(ひたい)
首の根っこが坐り、重量感が溢れた演技。
肩(かた)
覚えたてのころ、最も差しやすいので一番早く覚える演技
腰(こし)
派手な演技、一人前の差し手になるには、かなりの年季がいる。